クレアーレ熱海ゆがわら工房を運営する株式会社NKB会長の滝久雄は、本来は根っからの理系の人間です。その人間が文化芸術への造詣を深めたのは若き日、父・冨士太郎の事業を手伝ったのがきっかけでした。
滝は1940年、東京に生まれました。戦争中は一時、四国の香川県に疎開していましたが、小学校低学年で東京に戻ります。1959年東京工業大学(現在の東京科学大学)に入学し、機械コースに進みました。
1963年大学を卒業して、三菱金属に技術者として入社します。日本が高度経済成長へエンジンをふかし始めたときです。仕事は面白く、上司からも働きぶりを高く評価され、ドイツへの社費留学の話も来ました。しかしこれを断って、4年目の1967年辞表を出します。起業したい一心での決断でした。
起業の勉強をしながら、滝が一時身を寄せたのが実業家の父のところでした。交通広告の会社を経営していた父は文化芸術にも関心があり、毎年、東京駅で「交通総合文化展」というイベントを開催していました。文化展には著名な画家の実作を展示するコーナーがあり、滝は約40人の画家の先生を担当することになったのです。
四季折々、簡単なお土産をもって「冨士太郎の倅(せがれ)です」とお宅を訪ね、新作をお願いする。ときには描いてくれていた作品を受け取って帰ります。
その先生方の一部を挙げましょう――福田平八郎、林武、奥村土牛、山本丘人、福沢一郎、中川一政、橋本明治、髙山辰雄、東山魁夷、吉岡堅二、杉山寧、西山英雄、三岸節子、片岡球子、堀文子…
今では鬼籍に入った錚々(そうそう)たる方々です。
先生たちはものおじしない滝を面白がり、なかでも可愛がってくれたのが後に文化勲章を受章する山本丘人(1900年〜1986年)でした。めったに人に会わない先生が家に上げてくれ、画壇の裏話をいろいろ聞かせてくれました

東京藝術大学と女子美術大学(当時・女子美術専門学校)で教鞭をとった山本丘人には多くの弟子がいて、その一人が平山郁夫でした。
「平山さんは努力の人だ。私もいろいろな人を教えたが、あんなに努力する人は見たことがない。でも一時は大成するのかな、と思ったこともある。しかしあるとき、ぐっと伸びた。すごいね。やはり努力の結果は出るものだ」
片岡球子(1905年〜2008年)の家は藤沢市の鵠沼海岸にありました。質素ながら素敵な日本家屋で、滝が訪ねていくと万障繰りあわせて会ってくれ、お茶やお菓子まで出してくれました。35歳ほど歳が離れていましたが、友達のように接してくれたことを滝は忘れられません。片岡球子の絵に魅せられた滝は、後にパブリックアートの普及にかかわるようになると、原画を依頼しました。あの力強いタッチはパブリックアート、とくに陶板を素材にすると映えると思ったからです。
サンシャインシティの陶板レリーフ「江戸の四季」(1978年)を皮切りに、藤沢市役所の「めでたき冨士」(1983年)、富山空港の「立山」(2012年)など片岡球子の原画による6作品はすべて陶板レリーフで作られ、いまも力強い存在感のある作品として施設の公共空間を飾っています。

多摩美術大学の日本画科の教授をしていた堀文子(1918年~2019年)の家は大磯で、入口に樹齢300年を超えるホルトノキがありました。三岸節子(1905年〜1999年)も大磯に住んでいましたが、家は崖の上にあり、雪が降ると上るのに苦労したことを滝は今も覚えています。
父が不慮の事故で1975年に亡くなり、滝はその事業を継ぎますが、それまでの9年間、米国への長期旅行のときを除いて、四季ごとに画家の家を訪ねました。これは滝にとって美術品を見る目を養い、芸術の社会的意味を考え、内外の美術界の動向を知る契機になったのです。
いま滝は公共建築費の約1%を、その建築物に関連するアートに割く「1%フォー・アート」の法制化を求める活動をしていますが、この制度が米欧にあることを知ったのもこの画家通いをしているときでした。この9年間の経験は、パブリックアート普及をはじめとするさまざまな文化芸術、教育活動を進める上での土台を作ったのです。